兵庫県三田市の小児科・アレルギー科・予防接種・乳幼児健診・検診・栄養相談エバラこどもクリニック

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災害の周辺にて

和紙ちぎり絵Ⓒ森住ゆき 画像の転載禁

暗闇の中でふと目が覚め、何時だろうと時計に見やると、針は丁度5時46 分を指していた。そう言えば、あれからもう既に8年もの歳月が流れたことになる。

8年前、阪神間では地震によって数万の家屋が倒壊し、子ども584 名を含む約六千四百余りの命が奪われた。そして一命をとりとめた方々も、いまだ心と体に深い傷を背負って生きている。癒しの道のりを歩み終えていない人たちの悲しみは如何ばかりのものだろうか?その足跡が風化しないように、今も様々な試みが模索されている。

阪神大震災当日、燃え盛る神戸の市街地から僅か25 キロしか離れていない小生の住む三田市は、それでもかろうじて診療可能な状況にあった。しかし、被災状況が明らかになるにつれ、これは未曾有の災害であることがようやく認識できた。2日経って、さすがに居ても立ってもいられなくなり、夜間、電車と徒歩でなんとか神戸にたどり着いた。とりあえず神戸YMCA 会館前に立てかけていた自転車を失敬して、とにかく被害の最もひどかった長田区をめざした。途中、デコボコになった車道を通りながら目にしたものは、何百何千の若者がリュックサックを背負い、誰に勧められたわけでもなく、自らのヒューマニズムの名において前進する姿であった。この殺伐とした現代において、ややもすれば刹那的に生きようとする次世代に燦然たる光明を見出した思いであった。しかし、目指す暗闇の中で、瓦礫は煙でくすぶり続け、焦げ臭い匂いも立ち込めるなか、茫然自失に焚き火に当たりながらも近隣の安否を気遣う老爺、寝たきりで公衆電話の列に伍することもできない老婆、そして給水車群がる人々など、全てが雑然と交じり合いながら、それでも生きようとするエネルギーだけはみなぎっていた。倒壊を免れたカトリック教会内では、国籍を問わず人々があわただしく打ち合わせをし、救援活動を立ち上げようとしていた。最もその頃、指令本部たるべき神戸市役所のビルは中折れし、その一階ホールでは所狭しに被災者が横たわり、階上に通じる階段に至るまで飢えと寒さに震える人でごった返していた。

当時、小生は三田ワイズの会長をさせていただいたこともあって、震災4 日後には連絡が入り、数時間後には自治医大からの医療救援隊が到着するため、寝具20人分をお借りできないかとの依頼だった。早速会員からありったけの布団をかき集め、トラックとワゴン車に分乗し、山越えにて拠点となるべきガスも水道も出ない大阪府立看護大学故張知夫学長のお宅に届けた。思えばこれが震災支援の始まりであった。その頃、避難所ではインフルエンザが猛威を振るい、解熱鎮痛剤の供給も底をつき、被災者の間で大いなる不安がよぎったが、このような医療キャラバン隊は各地で拍手をもって迎えられた。その後、震災の救援活動はより効率的に組織化され、現地スタッフがニーズを的確に捉え、我々後方部隊もそれに従って、ボランティアがすばやく行動できるよう自転車を届けたり、また暖かい食事を食べられるようにと長田区を中心に、焼きそばや豚汁などの炊き出しを地元の飲食店が立ち上がるまでの約8週間続け、被災者達との間で信頼関係を築けたことは大きな喜びであった。分けても思い出深いものとして、同行の長年不登校の女子生徒が自ら避難所内を回り、大きな声で炊き出しがあることを叫びつづけた時の光景はいまだに忘れられない。マリア・テレサは、「世の中で一番惨めな人は、人々に見捨てられた人である。」と言われたが、一方では、自分を必要としている人が目の前にいること、そして自分が人に役立つ存在であると気付いた時、人は信じられないほどの勇気と力を発揮できることもまた真実であろう。

春になって、山積みになっていた救援物資がようやく片付いたころ、被災者達への援助も徐々に軒先に置くコスモスやパンジーなどの心安らぐ草花に変化していった。と同時に小生の校区内には仮設住宅が立ち始め、校医をさせてもらっている小学校にも被災した子供たちが転入してきた。その子供たちとどのように接してよいのか、また震災のことをお聞きしても良いのかなどの質問について学校の先生と勉強会を開いたりして、いわゆる「PTSD」なる言葉についての認識を深めていった時期でもあった。一方では、子どものストレスを発散できるようにと始まった絵画療法の絵を展示する活動を展開したりした。夏になって、トタン屋根の仮設住宅の住み心地はさすがに悪いらしく、自治会の懸命な努力にもかかわらず、入居者は一人減り二人減りしていった。それと入れ替わるように、「震災復興住宅」の呼び名で、付近にマンション群の建設が始まった。未曾有の震災を経験して、やはり一般の人々にもPTSD についての理解を深めてもらおうと、外来小児科学会のリーフレット検討会で「子どものPTSD」の作成に関わり、2000 年の夏にようやく完成に漕ぎついた。その後、兵庫県とYMCA が共催した「癒しと遊び」なるシンポジウムでは末席に連なることができ、ゲーム機やテレビなどのバーチャルリアリティでは子どもの心は癒えず、大自然に抱かれて伸び伸びと遊ぶことが肝要であることを力説した。一方、国内では少年によるバスハイジャック事件、少女長期監禁事件や大教大付属池田小学校事件など、深刻なPTSDの事例が続発した。また、その後のNYテロにより、米国では多くの被災された方たちやご遺族がいまだ深い心の傷のままにある中、現地では様々な心を癒すための試みがなさられている。その中にあって、日本人の被災者たちは言葉が不自由なため、恐らく心理カウンセリングを受けるにも困難があることが容易に予想された。事件発生3日後に、すぐこのリーフレットを被災した企業の事故対策本部にお送りしたところ、日本人社員はもとより、一部は英訳されてアメリカの子ども達にも役立てていただいたと伝え聞いている。しかし、一方では、日系二世の間では「パールハーバー」の言葉の響きに、戦時中の日本人に対する差別や誹謗中傷が再燃するのではないかとおののいた方も多かったと聞く。

以後、アフガニスタンにおいては、又もや罪なき子ども達が戦火の中を逃げ惑い、父母や兄弟姉妹を亡くし、家や財産も失い、住み慣れた土地をも離れざるを得ないという悲惨な経験からくる物的および精神的喪失感を背負わされている。その心の後遺症は、ユダヤ人に対するナチスの残虐行為を例に出すまでもなく、終生癒されない重症なケースも今後起こりうるものと予想される。その意味において、日本は先の阪神大震災での経験などから、子ども達の心のケアについてのノウハウを蓄積してきており、先般の台湾やトルコ大地震においても、多くの心理の専門家が現地に赴き、その知識の普及に尽力されていました。子どもの遊び場である学校や保育所などのハード面での建設のみならず、是非、次世代にまで影響する心理的なストレスを軽減するためにも、「子どもの心のケア」の大切さやPTSD に関する啓発活動および研修プログラムまで含めた、長期的な物「心」両面の支援を立ち上げていただきたいと切に願っている次第である。2001 年末には三重大学矢谷学長はじめ、諸先生らのご尽力により、坂口厚生労働大臣にも上記「子どものPTSD」リーフレットを通読していただくことが出来、また2002 年2月には大臣はご多忙にもかかわらず、貴重なお時間を割いて頂き、アフガニスタンの子どもたちの現状について、国会議員会館にて熱心にご傾聴してくださり、今後の国際支援について熟慮していただけたことは、誠に意義深いものであった。

2002 年7月アフガニスタンを支援するNGO「カレーズの会」に参加し、年末年始を利用して拠点となるカンダハルを訪問した。難民キャンプには66時間の長旅の末、さらに悪路を2 時間揺られてようやくたどり着いた。既に大勢の子どもたちが待ちわび、そして跪いて小生の手に接吻してくれた時には、さすがに嗚咽を禁じえないほどであった。感傷に浸るのもつかの間、すぐにその惨状を思い知らされることとなる。ぼろ布に覆われたテントは、寒さをしのげるはずもなく、それでも少年たちは裸足のまま、歯をガチガチ震わせながらV サインを遣してくれていた。そして、2 才になっても栄養失調で立てない幼児、姉をオタフク風邪で亡くした少女、ジフテリアの高熱でぐったりしている坊や、、、。

異国での診察には、いくつか乗り越えるべきハードルが待ち受けている。言葉が分からない、蔓延している疾病の種類が不明、処方できる薬品の一覧表もない、などなど。ましてやブルカを被る女性患者(または母親)の表情が読み取れないとなると、4重苦に苛まれることになる。それでも通訳の医学生を介して、とにかく診療所で診察を開始した。冬場特有の感染性胃腸炎が多く、それに戦乱のストレスによる胃潰瘍、過労による背部痛、不眠など、さながら心身症外来を診ている思いだ。言葉が分からないが、それでも人々の疲弊しきった悲痛な叫びを十分に感じ取ることができた。

日本なら重症の病人を運ぶ輸送手段、入院できる病床の確保など、当然思い浮かぶ段取りがここでは、ただ病人の両手を握って、思いを馳せていると伝えるのが精一杯の「医療」となる。そして、まもなく薬品も事切れ、後続の患者の目が、期待から一斉に失望に変わってゆくのを、背中で受け止めることしかなかった。帰りの夜道で仰ぎ見た星雲の美しさだけが、せめての救いとでも言うのだろうか?童画家の岩崎ちひろさんは、作品「戦火の中のこどもたち」の中で、「戦場に行かなくても子ども達がどうしているのか、どうなってしまうのか良く分かるのです。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心までが、世界中みんな同じだからなのです。」との言葉を残しています。このように、第二次世界大戦において悲惨な体験をした日本だからこそ共感できる平和への思いのもと、何時でも世界中の子どもの痛みに思いを馳せることが出来るようになればと思うこの頃である

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