兵庫県三田市の小児科・アレルギー科・予防接種・乳幼児健診・検診・栄養相談エバラこどもクリニック

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海の向こうの侍たち

雨上がりのコープ

開業して長年経つと、その歳月を物語るかのごとく、診療所の壁紙は汚れ、床も黒ずんできた。この先数年間診療し続けるか分からないが、とにかく心の休息をかねて、クリニックもなんとか一新したかったので、思い切って長い夏休みを取ることにした。それに、小児科学会の方では、長期入院児移行問題とワークライフバランス改善両方のWGメンバーに入れられ、何の取り柄もない田舎開業医として、とにかく眼界を広げないことには、居座り続ける理由もなくなるので、せめて海の向こうではどうなっているのか?行ってみたい衝動にかられた。

という訳で、長年の親友である小児科医Yasuko Fukuda先生に相談したところ、二つ返事で「いらっしゃいよ!」と言われ、これで行き先がサンフランシスコ(S.F)に決まった。S.Fには既に学生時代以来何回も行っているので、観光する必要もなかったし、また、Yasuko(Y)は米国小児科学会の加州北部の代表だったこともあって、その人脈の限りを尽くして、小生が会うべき人物と施設をテキパキと設定してくださった。おまけにウイークエンドは彼女の自宅で秋田犬とゆっくり戯れるとあって、この至れり尽くせりのスケジュールに身を任せることと相成った。

月曜日の午後にもかかわらず、開業医であるYがご主人のPeterと空港に迎えに来ることができたのは、やはりアメリカ式のグループ開業のお蔭である。週のうち実質的にクリニックで仕事するのは3.5日。そのほかは関連病院での新生児check upやオンコール、さらに準夜帯のurgent care(病院内の時間外応急センター)など、いつも多彩な職場で色んな職種の人々と会っているようだ。なんとも羨ましい限りであるが、24時間365日患者から連絡がつくことが要求される加州の法律により、オンコールの夜Yはいつも運転しながらハンズフリー電話で色々な指示を飛ばす緊張の連続となるが、このあたりの医師としての責任の取り方について、いつも見習わなければと思っている。

さて、時差ぼけを調整する間もなく、翌朝はいきなりレンタカーを飛ばして、時折GPSから発する訳の分からな英語の誘導に従って、S.F特有の五里霧中を迷いながらようやく目的のCalifornia Children Service にたどり着いた。加州は1906年以来、全ての肢体不自由児(重複障害を含む)は21歳まで無料で医療や福祉を受けられることになっており、ここがS.Fの拠点という訳だ。職員にはPT、ST、OTやソーシャルワーカーなど多彩であるが、何故かアジア系の人が多く、この分野における著しい進出を匂わせる布陣となっていた。それでも出迎えてくれた日系のDr.David Hayashida は所々空白になっている職員の写真欄を指しながら、「ここ数年州政府の予算不足で、職員が2割も削減され、活動は制限されがちである」と。ここでは使い古した車椅子は再利用され、研修の一環として医学生も受け入れていた。一方、循環器などの高度医療を必要とする患者は市内の別の施設に通院しているらしく、彼は両方のディレクターとして、その間を飛び回っていた 。  Dr.Hayashida との密度の濃い会話も気が付けば約束の時間となり、名残惜しいお別れを告げたあと、一路、次の目的地であるCampbellへ。S.Fからルート280で南へ約50マイル。わが心の故郷であるサンノゼのすぐ近くにあるとあって、見慣れた景色に迎えられ気持ちもワクワク。ハイウエイを出て路地を曲がると、目立たないように建てられたChildren Recovery Centerが飛び込んできた 。

しかし、定義としてはsub-acute hospitalになっている。入院している児は多岐にわたり、Ondine Curse、Treacher Collins、Fetal Drug Abuseなど、新生児科医を20年ほど経験した後にこの世界に飛び込んだセンター長のDr.Jim Silvaは1例ごとに詳細に説明してくださり、まさにスミスの奇形教科書を復習している思いだ。ここの入院基準は“at least 2 tubes” つまり、胃瘻+気管切開、もしくは人工呼吸器つきが最低条件となる。それでも、種々の医療のケアに助けられながら、子どもたちは特殊な装具をつけて廊下を所狭しに動き回っていた。また、IMVに繋がれもベッドに座りながらipadで好きなYouTubeをめくっているこれらの子らを見ると、なるほどここは日本のように終の棲家として高齢化した重症心身障害児施設と違い、あくまで退院するための準備段階にあって、recovery centerとはよく考えたもので、希望を持たせる命名である。看護配置も5:1で、確かにsub-acute 状態だけでなく、子どもの療育環境にも対応出来る人数だ。このような施設は北部加州で2カ所。LAなどの南部には6-7カ所。人口200万人あたりに1カ所という計算になる。  その後、Children Hospital Oaklandを訪問して分かったことは、そもそもアメリカのNICUには長期入院児の移行問題は存在しないということだ。NICUとはintensive careをするところで、従ってかかる経費もとびきり高価で、そこで長期に入院することなど、経済的な観点からそもそも許されない。また新生児科医はあくまでも新生児の時期を治療する職種であり、それ以降の慢性期のことは、もっと療養を重視した風光明媚な湖畔に立つsub-acute hospital に移り、そのため移行「問題」は存在しないようになっている。 ちなみに、NICU退院後のフォローアップは、日本のように病院ごとではなく、ここS.FではStanford、UCSFやCalifornia Pacific Medical Center(CPMC)などの大病院から退院する児は全てダウンタウンのビル1カ所で集中的にフォローを行っている。小児神経科医の重鎮であるDr.Jerome Mednickを中心に、OT、PT、ST、Nurse Practitioner(NP)にMSWがチームとなり、朝早くから当日訪れる数例のケースについて、予めNICUからの申し送りサマリーに目を通し、それぞれの職種が気をかけるべきポイントを討議して患者の到着を待つ。筆者は患者の一人である23週4日のダウン症児とその家族に付き添い、これらの職種間をそれぞれ約30分かけて回り、Bayley Scalesを含め、それぞれが行う作業をじっくりと拝見する貴重な機会を得た。午後はそれぞれの職種が再度集まり討議し、患者家族に対して分かるように説明を行い、最後にMSWがそれぞれの患者の住所地にあるregional center(リハ、言語訓練を含む)に連絡し、今後のフォロー体制を組み立てていく段取りになっている。筆者が担当した児はメキシコからの不法滞在移民で、これら一連の説明もスペイン語ができる親戚によって通訳され、単に医学的なことだけでなく、日本に比べさらに多くの社会的な困窮に直面しながらも、各職種が実にきめ細かい対応を誠実に行い、その職責を全うしていることに感銘をうけた。一方、各病院NICUの予後成績については、加入するVermont Oxford Networkにおけるベンチマークで位置づけられ、さら予後に影響を与える交絡因子も比較され、参加したCPMCの早朝ground roundで報告されていた。NICUスタッフとフォローアップ側の小児神経科医Mednick、さらにかかりつけ医のYが一堂に介して情報を共有している場に居合わせることができたのは望外の喜びであった。

右からDr.Fukuda,Dr.Mednick,筆者,小児科部長

また、かつて国立成育医療センター総合診療部長だったDr.John Takayama をUCSFの外来オフィスに訪ね、臨床教授として彼がoutgrowした重度の障害を持つteenagerたちを実に丁寧に診察し、MSWとともに患者にとって必要な個別対応をされ、その診療現場に接することができたのも大きな励みとなった。

一方、そうした米国の病院小児科医における女性医師が占める比率が極めて高いことにも驚いた。2010年における全米レジデント統計では小児科女性医師は72%に達し、筆者がのちに訪問した貧困層の多くが訪れるSan Francisco general hospital(SFGH)では、女性医師は80-90%まで占めるに至った。ここのレジデントルームで一午後逗留したが、ついに女性以外(男性に与えられた栄誉ある?称号)の医師に出くわすことができなかった。ここでは、もはや男性医師が妊娠育児をする女性医師を助けるのではなく、スケールメリット(どの病院も平均30名のレジデント)を生かし、主に女性が女性を助け、わずか12週しかないparental leave を取りながら、男女隔てなく仕事をローテーションしている姿があった。試しに、レジデント1年目の可愛い女医に小児科を選んで良かったのか?と聞いてみたところ、将来への不安は微塵もなく、また、ディレクターのDr.Katie McPeakも住民のためにサービスできる事に誇りを感じていた。正規職員さもなければ離職という二者択一的な日本式選択ではなく、パートタイム、night flow(夜勤が続く週)、あるいはurgent careやhospitalist(病棟専属の24時間勤務、その代わり月に7-8日のみ出勤)など、数多くのオプションが用意され、それぞれの生活スタイルに応じて柔軟に選択できるワークライフバランスの取れた体制は、今後日本が見習うべき方向なのかもしれない。
S.Fを訪れていつも思い出すのは、かつてサンノゼ日系人教会の牧師だった親友から見せてもらった一枚の古びた写真―1945年にドイツのダッハウ収容所を解放し、喜びに湧くユダヤ人たちの傍らで微笑むレイバンのサングラスを掛けた背の低い米兵 。

その実、この兵士の帰りを待つ日系の家族もまた、アメリカの理不尽な退去命令で不毛の砂漠の収容所に隔離され、塗炭の苦しみを強いられていたという話し。その日系アメリカ人の歴史の一部始終を今もサンノゼにあるJapanese American Museumに見ることができる。アメリカへの忠誠を示そうと、第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出し、時のルーズベルト大統領から最高勲章だけでなく、人種差別とも闘ったと賞賛された日系442連隊。今回の旅でも、最後に訪れたシアトル小児病院で米国の過疎地対策について案内してくださったDr.Kyle Yasuda(米国小児科学会第Ⅷ区会長、12州を統括)が、自分の叔父がその連隊に参戦していたのをこともなげに語ってくれた 。

それを聞くに付け、このあまりに厳粛な史実”Live with honor, Die with dignity”は、のちに日系の若者達を奮い立たせる原動力となっていったのでは?とさえ思えるようになった。我々が知らないところで日米の架け橋になろうと、数多くの日系小児科医が今回も手を差し伸べてくださり、そして運良く私はその親切にありついたことに感謝しつつ、この拙稿を海の向こうに生きる侍たちに捧げたい。

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