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台湾大地震救援記

和紙ちぎり絵Ⓒ森住ゆき 画像の転載禁

阪神から台湾へ

1999 年9月21日の早朝、テレビのCNN ニュースを見ていると、台湾の中部でマグニチュード7.3 の大地震が深夜1時47 分に起きたことが報じられていた。その映像を見ながら脳裏に5 年前の阪神大震災のことがフラッシュバックされ、被災状況がどれだけ深刻であるかは、神戸市長田区へ毎週炊き出しに行っていた経験からか、小生にもすぐに認識できた。

台湾には多くの知己がいる。しかも彼らの多くは、故郷が確か中部のはずだ。「もうしばらくすると電話が不通になる!」と思い、すぐに片っぱしから電話をかけまくって安否を確認した。幸い皆無事であった。といってもそれからの連日の新聞報道などでは、死者の数は日ごとに増えていった。政府の緊急救援隊は当日の夕刻に出発。日赤の医療チームも翌日には現地入りしていた。小生にもできることはないかと思い、インターネットで情報を収集したが、AMDA やAVN(アジアボランティアネットワーク)などの先発隊はもうすでに離日していた。次の予定はかなり後になるとのこと。しかも、看護婦の通訳をするぐらいの仕事しかなかった。何とかさらに情報を入手できないかと思い、思い切って現地のホムページが見られるように、パソコンに中国語の繁字体機能を組み込んでみた。すると「日本徳洲会病院、第二陣現地入りの予定」の文字が飛び込んできた。「これだ!」、急いで徳洲会本部に連絡してみると、出発は翌日の午後一時だという。救援するなら一刻の猶予もならないので即刻承諾した。幸い診療所は姉があとを快く引き受けてくれた。ただ、徳洲会チームの中で小生が唯一の飛び入り参加ということもあって、徳田虎雄会長がじきじきにお会いしたいとのメッセージが入った。翌朝、徳洲会大阪本部でお会いすると、「現地ではトイレは足りないが医者は足りているらしいぞ!それでもいくのか!」と言われ、震災ルックに首から聴診器をぶら下げていた小生としては、すごすご引き下がるわけにも行かず、「はい!精一杯がんばります。」。そのあとは運転手つきのハイヤーで関空へ一直線。途中、寝袋と懐中電灯がないことに気づき、慌ててスポーツ用品店に飛び込んで買いあさり、かくして9 月25 日に台湾行きの機上人となった。

被災の最もひどかった東勢にて

台湾側の受け入れ先は台湾随一の大病院である長庚記念病院(3700床)。検診用の一病棟を全て徳洲会チーム31名のために明け渡してくれ、しかも同病院での滞在中の飲食費もすべて無料という太っ腹。あとは日本各地の徳洲会病院からかき集められたこの混成部隊をどうまとめるかだけである。職種も各科の医師をはじめ、看護士、薬剤師、臨床検査技師、臨床工学士などさまざまである。コミュニケーションを図るために、とにかく全員の自己紹介から始まった。翌朝は朝5時に長庚記念病院の医療チームとともにバスで出発。目指すは被災状況のもっともひどい地区の一つで、人口6 万人の田舎町である台中県東勢鎮(震源地の北方約50km)。地震当日、東勢に通じる唯一の県道が高さ5 メートルの活断層に寸断され、最初の12 時間はまったく孤立無援の陸の孤島となり、その間死者600人の大惨事を救助したのは、当夜当直した消防隊員わずか5 名であったという。まさに阿鼻叫喚の地獄だったらしい。東勢の町が近づくにつれ、道の両側の民家は大きく崩れ落ち、鉄筋の建物の1-2 階が完全に押しつぶされているところもあった。断層を斜めに平らげた土ぼこりの道路をバスは唸り声を上げながら、ようやく乗り上げることができた。途中の仮設トイレで休憩を取りながら、バスは3 時間かけてようやく救援チームのベースキャンプである東勢国民中学校にたどり着いた。この中学校だけでも、5 名の生徒と直系の親属が約30 名亡くなっていた。校門の横に、キリスト教会が震災で身寄りを無くした老人のためのデイケアセンターを開設していた。グラウンド中央には、被災者のテントが約50 個ところ狭しに肩を寄せ合っていた。というのは周りの校舎がいつ崩れるかわからないぐらい、鉄骨が剥き出しになっていたからである。突然マグニチュード6.8 の余震が襲ってきた時は、さすがに生きた心地がしなかった。早速、徳洲会と長庚の混成チームが7-8人単位に編成され、救急車やワゴンに飛び乗って5 箇所の救護ステーションに散っていった。車内でお互いに片言の英語で自己紹介を済ませ、車は椰子が生い茂る山道をくねくねと登り、30 分ほどして石城小学校という避難所にたどり着いた。ここは比較的被害の少ない地区で、方々から避難してきた農民たちが教室を起居の場所に使っていた。保健室を診療所に見立て、前日のチームが残していった医薬品を点検しながら、早速、にわか外来の開店となった。外科ブースでは、瓦礫の山を整理して受けた外傷の患者がいまだに絶えず、縫合や包帯交換。一方、内科ブースでは不眠や服薬中断のために高血圧、糖尿病などの症状の悪化が多く、小児科ブースでは、テント生活のため昼と夜の寒暖差が激しく、そのための風邪引きが多かった。また、明らかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)と思われる夜泣きが絶えないなどの幼児もいた。

コミュニケーション

言葉の壁は大きいが、通訳を買って出てくれた人たちは、台湾から日本の国立大医学部に留学している優秀な医学生ばかりであった。大学での授業を中断して、祖国の危機にいち早く行動した彼らの愛国心には感動せずにいられなかった。彼らは日台両方の医学用語に堪能なだけでなく、チーム全体のコーディネーターの役割も果たしていた。

午後になると亜熱帯特有のスコールが降った。患者の足も鈍くなったところで、退屈していたこどもたちが物珍しげに保健室に入ってきた。札幌からきた外科の清水先生が機内でもらったトランプを子供たちに配ったのを皮切りに、保健室は彼らのプレイルームと化した。少し涼しくなって西の空に虹が掛かるころ、誰からともなくバスケットホールをやろうということになって、校庭で日台医療スタッフと被災者の混成チームが、山すそに日が落ちるころまで戯れていた。それはそれでよいと思った。このすさんだ環境のもとで、笑えるということが何よりの特効薬ですから。帰りの救急車では皆、仕事した満足感と心地よい疲労感に満たされていた。夜のベースキャンプでの食事は長庚からコックさんがわざわざ出向き、みんな中華料理に箸を運びながら、昼間に親しくなった長庚のスタッフと片言の英語で国際親善に努めていた。そのあとのミィーティングでは、この地区には約7000名の被災民が約10 箇所の避難所に分散して生活していること。そして、この地区の医療活動は、本日政府の決定により全て長庚記念病院にゆだねられたため、他の医療チームの撤退が始まり、我々の救護ステーションは明日から10 箇所に拡大されるようになったと聞いた時、バスケットをやっている場合じゃないということがようやく理解できた。

昼間は30度を越す気温のため、地面での照り返しがきつく、夜のテント内は蒸し風呂状態だった。仕方なく大きな木の下で、テントなしで入眠剤を一錠飲んで野宿した。翌朝、顔以外の全ての露出部がやぶ蚊に無数に刺された事に気づき、その跡は2 ヶ月たっても消えることはなかった。2日目は幸いまた同じ石城小学校に配属され、井戸水の出る避難所がこんなにありがたいものかと認識を新たにした。顔も洗えるし、歯磨きも糞もできる。一方、水のない避難所の衛生条件はきわめて悪劣で、ご飯にハエがたかる始末であった。保健所の職員が各救護ステーションを回って下痢患者には必ず便培養をするよう念を押された。毎日やってくる不安神経症のおばあさんや打撲した膝に膏薬だけ塗っていたおじいさんの相手をしながら、この日もこどもたちとバスケットボールに興じることができた。ここは避難所の中でも一番恵まれているだろうと皆で話していると、案の定、午後には約半分のマンパワーが他の救護ステーションに拉致されていった。長庚のナースたちはカルテに書かれた英文の患者病名をほとんど理解できるため、暇に任せて病名コード表と照らし合わせながら病名をコード化していた。後で病院のコンピューターに入力して災害時のデーターベスとして蓄えていくと言われたときにはびっくりした。一方、日本側医師は、薬剤師が苦労して作った薬品名の日台対照表と睨めっこしながら、一日量分3 に慣れていた処方を、1 回分×3 に変換するのに苦労した。また本日より東勢中学校において心理カウンセリングを開始するとのチラシが被災者に配られるようになった。

被災地の公衆衛生

3 日目はローテーションで小生の班が休息日。また3 時間バスに揺られて長庚記念病院に戻った。午後に汗臭い下着を病棟の洗濯機で洗っていると、急に最大野党である民進党(2000 年3 月より与党)の国会議員から電話が入った。台北の立法院(日本の国会にあたる)において、日本チームとして阪神大震災などの経験から現況を分析し、当局にアドバイスしてほしいとの用件であった。チームの副団長である湘南総合病院救急部部長の青木先生の通訳として小生も同行するよう求められ、急遽台北ロータリークラブのボランティア(たまたま小生の旧知の義弟)の運転するワゴンで、約束の時間に少し遅れて立法院に滑り込んだ。7 名の国会議員と各国マスコミ紙の記者たちが注目する中、青木先生は現段階では初期のトリアージは一段落したが、水がないために、し尿処理ができないことが最大の課題であり、疫痢が蔓延すると困るので、日本チームは毎朝、被災者たちが自らするようになるまで、トイレ掃除を代わりにしていることを伝えると、会場にとどよめきが伝わった。しかし、医者出身の国会議員がすぐにその場で必要な仮設トイレ数を算出し、翌朝には十分な数のトイレが東勢中学校に届き、その迅速さにはびっくりした。翌週も同様な公聴会を開くので再度出席するよう求められたため、青木先生の災害マニュアル(国際赤十字社出版)を中国語に訳すべく、夜遅くに前出のボランティア宅にお邪魔し、翻訳を依頼した。

現地事情

4 日目も初日同様、早朝5 時に東勢へ出発。今度は東勢の町外れにある、もと陸軍(814部隊)のかまぼこ兵舎の跡地にできた救護ステーションに配属された。ビニールハウスのため、室内の温度はうなぎのぼり。脱水の患者に点滴しても、汗びっしょりになって効果がない。それ以外にも過労で意識消失している若い兵隊さんが担ぎ込まれたり、足の小指がミイラ化して切断せざるを得ないような症例など、救援される側も救援する側も疲労がピークに達していた。田舎のせいか、ここは3-4 世代が同居している大家族が多いため、地震で一度に多くの親族を失うケースも見られた。喪主自身が骨盤骨折のため来院できず、外科医がスクーターの後ろに乗せられて、葬式現場に往診した場面もあった。そうした中、小生が診察した20 歳の青年がどうも肺炎のようであり、「レントゲンが撮れればなあー」とつぶやいていると、撮影が可能とのこと。待つこと3 時間、ようやく結核検診車が現れた。どうも震源地の近くから道なき道を飛ばしてきたらしい。海外から来た医療チームの熱意に答えるべく、台湾側の対応も必死である。このような努力には本当に頭が下がる思いであった。幸い、この頃から地元の2 次病院が再び機能し始めたため、重症患者を後方に転送することが可能になった。また、保健所の所長が毎日下痢患者の数を聞きに来られた。最もここの避難所には急ごしらえのシャワーブースがあり、医療スタッフも皆交代で入浴できた。小生が入ろうとしたとき、先に入っていた兵隊さんたちは体中に石鹸をつけたまま譲ってくれようとした。台湾の軍隊には「軍愛民」という言葉のとおり、民は軍に優先する概念が浸透していた。夕刻になって、軍の測量隊が来て、地形を測っていった。どうもここに大規模の仮設住宅を建てることになったらしい。翌日には大型のキャタピラーやブルドーザーが続々と来て整地していった。また黒塗りのリムジンが突如にやってきて、軍の参謀総長が短時間の間に計画を聞いて帰られた。夜になって、東勢中学校のグラウンドの隅には衛星放送の会場が設けられた。台中県の教育委員長や、校長、父兄の代表などが出席し、被災した学童の教育や進学について盛んに討論し、教科書を山積みしたトラックも続々と到着した。日本との通信は衛星回線によるイリジウムの調子が悪く、もっぱらNTTの携帯用国際電話を皆が交代で使用した。この頃になると通訳の医学生たちも学業がそろそろ気になりはじめ、帰日する期日が迫っていた。しかし、通訳がいなければこのチームはまったく役に立たない。その必要性を熱血漢で有名な鐘逸人先生に訴えると、すぐに台中県知事の耳に入り、瞬く間にテレビにテロップが流された。すると翌朝には日本語ができる民間人が続々と集まった。大学で日本語を学ぶ女子学生、日本人駐在員の奥さんまたは70 才過ぎの元日本帝国陸軍軍人の年寄りなども来ていた。医学用語ができない分、戦力低下は否めないが、その熱情には胸を打たれるものがあった。

壊れた砦と強力な援軍

かまぼこ兵舎跡でさらに一日診療したあと、小生はやはり友人のことが気になって、単身医療チームを離れ、震源地に程近い彼の実家がある南投県草屯鎮に向かった。彼の父親張錫宝先生は重症のパーキンソン病で自宅療養しておられた(震災2 ヵ月後にご逝去)。戦時中は日本の軍医として南太平洋で戦い、後に定年になるまで兵庫県多可郡の無医村にて奉職し、小生も小さい頃良く可愛がっていただいた。震災当日より3 日間停電した時は、在宅酸素発生装置も使えず、喀痰吸引もろうそくを灯してかろうじてできたという。果たして日本政府が進める在宅介護保険は災害時にどれだけ機能するのか、はなはだ不安になった。友人は近くで約150 床の病院の院長をしていて、震災後は病院に寝泊りし、ほとんど家に帰っていないらしくて、早速彼の病院を訪ねることにした。病院中の壁はヒビだらけで、レントゲン撮影装置が地面に転がったままだった。震災直後には、病院の門前に20数体の遺体が運び込まれたらしい。幸いコンピューターシステムだけは無傷だったので、病院の駐車場で大型テントを張り、その中で端末をたたきながら、かろうじて外来診療を営んでいる状態だった。もちろん、非常事態であったので患者からは自己負担分をもらえないとのこと。彼の目下の最大の悩みは、行政から病院再建の為の補助金が出るかどうかである。テントの横には、衛生署(日本の厚生省にあたる)からの通達で、65 才以上の老人は早急にインフルエンザワクチンを接種せよ(一律無料)との張り紙があった。このあたりの対応はさすがだと感心しながら、5 年前に神戸の避難所でインフルエンザが猛威をふるったことを思い出した。

翌日、台北へ北上する途中に長庚記念病院へ立ち寄ったところ、台北で国会議員が徳洲会の第三陣医療チームの歓迎パーティをするので通訳をしてほしいと頼まれ、出席した。席上、隣の仏教系の慈善団体代表からしきりに、日本政府の救援部隊が使用した生命探査装置(ドイツ製、商品名シリウス)を購入できないかの相談を受けた。民間のボランティア団体が自ら初動をしようと言うのである。後日、日本に帰ってから丸紅ルートで購入(日本円で3000 万)できるよう手配し、合わせて操作の仕方を習得できるよう、東京消防庁のハイパーレスキュー隊に依頼した。

PTSD のその後

かくして8 日間にわたる非日常的な生活が終了した。帰りの飛行機の中で、小生があまりにみすぼらしい格好をしていたので、客室乗務員に体の具合を訊ねられた。事情を説明するとファーストクラスからシャンペンやワインをどっさり持って来て、お土産としていただいたのには恐縮した。日本に帰ったあとも、被災した人々の辟易した心に重くのしかかるPTSD(心的外傷後ストレス障害)が気がかりでならなかった。現地では、地震の1週間後に大手新聞の主催で、台湾の心理関係や精神科の重鎮らによる座談会が開かれたり、また一族37 名のうち、瞬時にして29 名まで亡くした重体の女性がもう既に半狂乱状態になり、「死なせてくれ!」と喚いているなどの記事が大きく報じられていた。たまたま、神戸YMCA の山口総主事が応援のために台湾を訪れることを知り、台湾の児童文学者で東京でも命のホットラインをされたことのある許芦千恵さんに会えるよう手配した。その後、10 月末日に台中YMCA において許女史を中心としたPTSD に関するシンポジウムが開かれ、阪神大震災で活躍した数名の心理の専門家を神戸からも派遣でき、現地の心理カウンセラーへバトンが引き継がれた。一ヶ月ほどして、台湾の衛生署(厚生省)より、心理関係の視察チームが來阪した際にも、阪神大震災の詳しい資料を渡すことができ、何とか役に立てていただけたらと願っている次第である。

問われる小児科医の役割

今回の場合、医師免許の問題や医薬品の補給など、現地の全面的なバックアップによって可能となった稀有な救援活動と言えるが、このような大災害に遭遇したときに小児科医として何ができるかを問われた旅でもあった。しかし、こどもに関する全てのことをコディネートできるのは、ほかならぬ小児科医であるように思う。いつかまた、復興した東勢の町並みをゆっくりと散策できる日が来ることを願いつつ、不幸にして亡くなられた方々のご冥福と残された家族に一日も早く安らぎが訪れるようお祈りしたい。

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